母強し、女は強い

2020年お盆の昼下がり。うだるような暑さの中、母が仏壇を置いているドレッサーの引出しから新聞の切り抜きを掘り出してきた。見出しは「“母の力”カフェーの灯消す」「男社会にき然と」。亡き祖母の功績を紹介する記事だった。祖母の名は小柴美知。戦後、洲崎遊郭が名を変えて残った赤線地帯「洲崎パラダイス」。その地域に住む子供たちのために売春防止法の制定を訴え国会に乗り込んだ女性たちの中に美知がいた。いや「中にいた」どころではない。先頭に立っていた。

 

昭和23年、遊郭はカフェーと呼ばれる特殊喫茶店として営業を続けていた。木場界隈の材木用人工河川にはカフェーで使った避妊具(コンドーム)が毎日、捨てられていた。川に浮く避妊具を子供たちが拾い膨らませ遊んでいる。同じ年頃の子供を持つ親として美知(当時36歳)は黙っていられなかった。PTAに担ぎあげられ主婦たちのリーダー的存在になっていた美知は、たった一人でカフェー組合の元締め宅に出向いて直談判した。すると翌日から避妊具は焼却処分されるようになった。「相手はヤクザさんみたいな、おっかないおじさんでしたよ。私もまだ若かったから恐ろしかった。でも絶対にここから売春をなくしていかなきゃダメだと思ったの」と晩年、美知は語った。

 

そんな美知のもとには、カフェーで働く若い娘たちが代わる代わる相談に来るようになった。当時はまだ、お女郎と呼ばれていた彼女たちに真っ当な仕事を紹介したり身元保証人になったりと、更生の手助けをした。女郎が減ったことに腹を立てた楼主に向かって「仕入れができないなら、自分のうちの娘を出せばいいじゃないか。娘を犠牲にするってことには変わりない。よその娘じゃなく、自分の娘を出したらいいだろ。」と啖呵を切り怒らせた。それ以来、提灯をつけた威勢のいい男衆が家の前にきて「小柴のアマ出てこい」と随分脅された。夜、銭湯に行くのも危ない、いつブスッと刺されるか分からないからと、夫が家風呂を作ってくれた。それでも毎日「ツラ見せろ」とうるさかったから、美知は我慢できずに止める夫を振り切って表に出た。そして、再びあられもない啖呵を切った。「家には子供もいるのに、素人衆相手にそういうこと言っていいのかい。仁義を切って出直しな」と逆に脅してみせたのだ。それ以来、脅しはおさまった。

 

 売春防止法が施行された後、区議に立候補する頃には元カフェー経営者もその妻たちも「小柴さんのためなら」と、こぞって力を貸してくれたという。美知の人生はドラマの連続であった。始めて区議に立候補した際は、まだ地域に女性議員がいない時代だった。その時の男社会からの選挙活動妨害はすさまじかったようだ。その話はまた、後日、紹介しようと思う。以降美知は、区議会や地域婦人団体連盟(地婦連)を始めとする多方面で活動し、世の女性の声を代弁し続けた。コロナ禍に美知が現役であったら、恐らく誰よりも先に地域の女性を集めてマスクを作り、手洗いの仕方を印刷して、各所に配って歩いただろう。区内の学校、病院、ホテルを駆けずり回り、小池さんを猛烈バックアップしたことだろう。

 

                                                       令和2年8月14日

 

 

 

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